『水星の魔女』第2クールと『ガンダムNT』のこと

何かしらは書こうと思ったまま放置してたので。

 

 

『ガンダムNT』

 最近ちょっとプレイした『スパロボ30』に登場するので、なんとなく見てみようかなという気になった。予想通りというかなんというか、微妙。キャラクターを殺すために殺したみたいな感じがある。人一人が人生すべてを犠牲にして防いだものがそれかという。もっと手前で防げる話だったろうという理不尽に対する怒りもあるな。

 ただ、人の魂がMSに宿るというZでの話を発展させた設定そのものは悪くないというか、ニュータイプ研究所のクソっぷりも含めて、『水星の魔女』のプロトタイプと言えるかもしれない。

 NTにおける、「よくわかんないけどニュータイプパワーがいい感じに作用した結果、サイコミュ技術によって人が生死を超える」のうち、「生死を超える」という要素を整理して、SFに仕立て直したのが、ガンド技術という感じ。そういやエアリアルのオーバーライドもわりとNT-Dだ。

 

『水星の魔女』第2クール

 誰しもが止むに止まれぬ事情から許されざる罪を犯し、それが審きを経て赦されるというわりと複雑で宗教的な構図を持った作品で、人は罪を犯すものだという前提があったと思う。登場人物は普通に生きるだけでも社会構造に巻き取られて誰かを踏みつけずには居られないし、みんながみんな、何らかの形で加害者であり同時に被害者であるという物語の構造になっていた。しかし、それでも人は人を赦すことができるし、そこから先へ進めるのだという人間の持つ善性への信頼を描いた物語であったように思う。

 たとえば、ニカは良くも悪くも普通のいい子が真面目に進学を志していたらそのルートしかなかった、という感じがある。

 贖罪の物語なので、罪を犯してしまう人々にいかに共感できるかがキモみたいなところがある。地球と宇宙の対立を描く上で、地球側の拠点を誰もが知っている「日本の学校」の廃墟にしたのもそういう工夫の一つなのかもと思ったり。がっこうぐらしというか嫌なライジンオーでは。


 人間関係を細かく描いた上に、死亡退場するキャラも少なかったので、2クールでは尺が足りない所があった。あそこまでやるならシェイクスピアに倣った演劇的なアプローチで、登場人物をもっと大胆に減らして良かったのでは。鎌倉殿なんか必要な時だけ突然子供が湧いたりしたぞ。


 パーメット、SUICAみたいなアンテナ付きICチップ+αみたいな性質を持ったもんかなと思ってる。パーメット通信をさせるために、あの時代のありとあらゆるものはパーメットを練り込んだ素材が使われているので、パーメットを操って崩壊させるとみんな崩れてしまう、という解釈。

 パーメット自体がサイコフレームをSFとして再解釈しようとしたもので、量子なんちゃらでそれ自体が相互に通信を行うことで独自のネットワークを形成し、それが擬似的に死後の世界となることで、Zガンダム最終回の再現を可能にするというのが今回のミノフスキー物理学枠だったんだろうなと。そしてそれこそが疑似「月光蝶」の技術的基盤だったというウルトラC

 それらの技術的背景を踏まえて考えると、ガンダム分解ビームを悪用して服だけ溶ける光線を作ることも可能ではないだろうか。

 そういやプロスペラはガンダム乗りでデータストーム侵食も受けてるから、死後の世界の入場権があるんだよな。体が死んでいればエリクトと同じ世界で生きられたかもしれないところを満足に動かない肉体の牢獄に囚われて生きるというのは、それ自体がもう贖罪のための煉獄のようなものでは。