文学フリマへ行った日記

 東條慎生さん(マキオかなと思ったらシンセイと読むらしい)が文学フリマ後藤明生について書いた自著を売るという話があったので、せっかくなので本物を見に行ってみようと思った(本物とは)。

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 東條さんというかid:CloseToTheWallさんとは、別のインターネット知り合いのブログのコメント欄で時々アニメの話を少しするという、インターネット知り合い未満みたいな関係。普段見ているアニメの幅が広くて、自分とは違った視点からもアニメを楽しんでいるので、こういう見かたもあったんだなと思ったりすることがよくある。
 例えばこんな感じ。

 

 年末になるとそれをまとめた超長大な記事が出る。

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 その東條さんが前々からずっとテーマとしてやっていたのが後藤明生という人で、この前それについての単著を出した。

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 後藤明生については自分はさっぱりその存在を知らず、また実際のところ興味もなかったのだけれど、夏頃の記事で代表作らしい『挟み撃ち』の聖地巡礼みたいなエントリーがあって、それを見ると割合に見知った場所が多く出ていることと、それらを経巡るあらすじらしいということで、ちょっと面白そうだなという気持ちになってきた。何につけても、ものごとの入り口としてあらましというのは必要なものだなと思う。

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 それでまあ、後藤明生の解説書を読むほどではないにしても、東條さん自身がこれだけ長いこと面白いと思っている作家の本はどういうものか、一つ読んでみてもいいかもしれないという気持ちになったので『挟み撃ち』を読んでみることにした。

 

 本がデータで買えるのは手軽さの面ではやはり素晴らしいことだと思う。

 別なところで、西條八十の「ぼくの帽子」の「母さん、僕のあの帽子、どうしたんでせうね?」をもじって「おばさん、僕のあの外套、どうしたんでせうね?」という感じの本を読んでいるという話をしたところ、『挟み撃ち』の書名を当てられた事があった。

 私小説的だけれど、はたしてこの「旧陸軍歩兵用の外套」は実在したものなのかなと読み終わってみて思った。

 外套はおもちゃの剣やアルバイトの二等兵の服装と同じように、あるはずだった将来、とつぜんに消滅してしまった将来を象徴するものであり、それ自体はもしかしたら小説を成立させるための仮構のものだったんじゃないかなと。

 おもちゃの剣も、アルバイトの二等兵も兵隊を模倣したにせ物ものであって、旧軍の外套を戦後に着ているのも、ある意味では兵隊のにせ物と言えるのでは。本来、戦争が続いていれば自分が当然なるはずだった兵隊、ついぞ本物になることがなかった兵隊への心残りのようなものがあの外套の正体であって、いつの間にか消えてしまったその兵隊への心残りのようなものこそを主人公は探していたのでは。旧軍の外套を着て戦後を生きるというのが、戦中と戦後の二つの時代に挟み撃ちにされていた主人公の心情を象徴したものかなと読んだ。

 東條さんの本をちょっとめくってみたら、「挟み撃ち」という題名には、時間的な意味での挟み撃ちとは別に、異邦人としての植民地と日本に挟み撃ちにされる感覚も含まれていそうだなとは思った。身につかなかった「チクジェン」訛りとかは異邦人としての寄る辺のなさを示す話かなとも思う。

 あとで他の人の感想を読んで、これは笑う話だったのかと遅まきながら気づいた。『桜の園』が喜劇だと教えられたようなちょっと変な気分。このあとで下敷きになっているゴーゴリのほうの『外套』も読んだけど、たぶんこれも本来は笑う話なのだろうなあ。

 読んでみて、あっちこっちに脱線していくのは『ドン・キホーテ』っぽさもあるけれど、あれは脱線する度に物語の語り手も交代していくから、どちらかというと『おもひでぽろぽろ』のほうが近いかもしれないなと思ったりした。

 ついでに聖地巡礼御茶ノ水橋にも行ってみたけれど、今となっては工事で景色が変わってしまって、聖橋の向こうの地下鉄は見通せなくなっていた。少し脱線するけど、この前見た『すずめの戸締まり』では工事中の御茶ノ水近辺が描かれていて、まさしく「今」の東京だなあと思ったりした。上野駅にあったという「電話の家」というのもちょっと気になって調べてみたのだけれど、ネットで調べた限りだと写真とかは見つからなかった。今の上野駅の歌碑のあるあたりに公衆電話を集めたそういうものがあったらしいということだけはわかった。ついでのついでで言うと、上野近辺の銀行となると御徒町駅の周辺に集中しているイメージなので、どうして上野駅から銀行へ行こうと思ったのかちょっと不思議な気もする。御徒町へは歩いてもそう遠い距離でもないけれど。ついでのついでのついでで、御徒町周辺に銀行が集中している理由は、あそこに宝石屋さんが集中しているかららしい。もともとあの辺りは仏具の職人が集中していた地域で、廃仏毀釈で失業した仏具職人が装身具の職人へと転身したのが宝石街の始まりなのだそうな。

 さて、『挟み撃ち』を読んでしまって、どうしたものかなと考えて、もう一つくらい代表的な作品を読んでみるのもいいだろうということで『吉野太夫』を読むことにした。信濃に居たという吉野太夫という遊女についての小説を書くために取材をする話。途中で作者が入院してしまうのだけれど、そこでどうもこの小説が連載作品だったらしいと知ってわりと驚いた。こんな行き先不明の状態のものを連載にしようと思ったところにも驚いたし、この人はこんな変なものばかり書いていて果たしてちゃんと生活ができているんだろうかと妙なことまで気になってしまった(軽井沢に小屋を持ってるような人に言うことではないかもしれないが)。

 小説全体を通して吉野太夫のような当時の信州の遊女の概略のようなものはわかるのだけれど、調べるほどにその中心に据えるべき吉野太夫の存在があやふやになって、なんだかぼんやりとはそこに存在していたはずの吉野太夫が、最初から居なかったかのようにまるごと消えてしまうような不思議な感覚を覚えたあたりで小説は終わってしまう。

 『挟み撃ち』の外套が、記憶を想起するためのきっかけであって、読者からしてもおそらく見つからないだろうという予感を抱かせつつ結局最後まで見つからないのとは反対に、『吉野太夫』は吉野太夫のしっぽくらいはつかめるかなと期待していたところが、予想に反してその実在性がどんどんあやふやになっていく。どちらも探しものが見つからない話ではあるけれど、「見つからないこと」の意味というか方向性がだいぶ違う感じがした。

 

 この『吉野太夫』をだらだらと読んでいる最中に、冒頭にある東條さんが文学フリマへ行くという話が出たので、文学フリマまでに『吉野太夫』が読み終えられたら文学フリマへ行ってみるのも悪くないかもしれないと思った。それで多少頑張って『吉野太夫』は読み終えてはみたものの、わざわざ出かける理由にするにはもう少し目的がほしい。自分のインターネット観測範囲内で文学フリマといえば、id:kash06さんがかなり熱心にやっている印象だったので、webカタログからめぼしい本をリストアップする一方で、kash06さんのツイッターを延々と遡って面白そうな本のリストをこさえて、初めての文学フリマへと行ってみることにした。

 

 当日。開場直後は混むらしいから13時ごろを目安で着くようにゆっくり出ればいいやと思ってのんきに昼寝をしていたら、いつも通りに寝過ごしてしまい14時くらいまでに着ければいいなあという時間になってしまった。会場の東京流通センターへは浜松町から乗り換えて東京モノレールで行く。東京モノレール、存在自体は前々から知っては居たものの、機会がなくてこれまで乗ることがなかったので、これに乗ることは今回少し楽しみにしていた目的の一つ。上野動物園のと千葉のには乗ったことがあるし、モノレールではないけれど、同じように高架上を走るゆりかもめニューシャトルにも乗ったことはあるので、中量輸送の乗り物らしくゆったりした乗り心地なんだろうなと思っていたら、想像よりだいぶ速度が出るし、かなり揺れる。走行中にスマホで文字を打つのが困難なレベルで揺れる。ジェットコースターかな? 臨海部を走っていることもあって、水の上を走る区間も多く、いい意味で予想を裏切るエンタメ性の高い乗り物だった。

 文学フリマ会場、kash06さんとはどこかでニアミスくらいはするかなと思ったら、ご本人が入口で交通整理の呼びかけをやってて笑った。スタッフとして列整理をやっていたそう。いくらか会場を歩き回って買い物リストを潰してからアーリーバードブックスのブースで東條さんに挨拶をして、本と吉野葛のCDを買う。インターネット上で個体認識されているかちょっと不安だったけど、どうにか存在は認知されていたらしくてよかった。くじを引いたら当たりが出て、なにやら黄色いでっかい本を頂いてしまった。一通り会場を回って撤収。

 インターネットで見知った人が、実際に人間のかたちをしてそこにいるというのは何回か経験したけど不思議な感じのするものだなと思う。あとなんだかんだで初対面の人に会うのはめちゃめちゃ緊張する。

 そういうわけで、後藤明生関連の本がまたいくつか増えたので、もうしばらくは後藤明生との付き合いが続きそう。上に書いた雑な感想もまた色々と変わってくるかもしれない。

この日買った本とか